ひとり恋愛トーク を続けます。
(今回でひと区切りつけます)
前回までのあらすじ:
▽『我が子のためならば
何でもしてやりたい!』
と思えるのは、
▽つまり、
その関係性の永遠なることが
神とか宇宙とか自然とか
そういう大きなものによって
保証されているから、
安心して相手を愛することが
できるのだと。
(特に、私のような
性悪説を採用する人間には。)
▽これが永遠が保証されない
単なる恋愛の場合だと、
誰しも、振られるのが怖いし、
もし振られたら、悲しい。
▽家族愛では、
見返りは求めていなくても、
無条件に相手を愛している
わけではない。
『血の繋がり』という
セーフティネットによって、
愛が無意味になってしまう
ようなことは、
予め回避されているのだ。
▽それゆえ、
家族愛は完全に
『無償の愛』と呼べるかは
良くわからないが、
それと同程度の状態を
血の繋がりがなくても
実現できるものなのだろうか?
このような保証は、
人智を超えたところで
定められているから意味がある
のだとすると、
血の繋がった親子でなくとも、
お互いにこの相手からは
何があっても絶対に逃れられない
ということが強制的に
決まっていれば、
同様の状態が実現できる
のではないか?
▽具体的には、互いに相手を
運命の人だと思えるような場合
がそうだ。
(相手と一緒になったことを)
「神様の思し召し」とか、
「宇宙の法則に従った結果」
「一生に一度の奇跡!」
などと思えれば、
その関係性は、人間ごときの
一時の感情では崩しづらい。
つまり、永遠が保証されている
状態に近い。
▽そんなわけで、
見合い結婚の時代から
恋愛結婚の時代に移って
まだ50年ほどとは思うけれど、
できちゃった婚とか、おめでた婚とか
授かり婚とかある中で、
(全部一緒か)
次は、「運命婚」にするのが
良いのではないかと思う。
▽神とか宇宙とか
言い始めてしまったので(笑)
少し、地に足の着いた
話に戻したい。
▽大体、「運命婚」と言っても
どこまでが「神の思し召し」で、
どこからが本人たちの意志なのか、
その線引きはかなり微妙なところだ。
▽ただ、もし愛が結局は
自分のためや、この世界のためで、
目的なき愛は無いとするならば、
目的の達成に資する愛と
そうでない(『無駄』な)愛も
あるかもしれず、
愛を『無駄』にしないためには
愛を注ぐ側と受ける側が、
何らか腹を括ることが重要
だと思われる。
▽つまり、テレビ番組の
罰ゲームなどでよく、
2名の出演者がそれぞれ
大きなゴムを口でくわえて
画面の両端に離れていく、
みたいなことをしているけれど、
そんな状態の中でも
相手が口を開かない安心感
・・・という最後の喩えは
蛇足だったかもしれない。
ひとまず おわり☆

ハシゴを外さないという安心感が愛の基礎?
http://news.mynavi.jp/c_cobs/news/labaq/2012/08/18-15.html
(今回でひと区切りつけます)
前回までのあらすじ:
・恋愛は、場合によっては、他のもので代替可能
・究極的には、自分のための恋愛なのだから
・でも、自分のための愛だなんて、おかしいよ?愛は無償でしょ?
・家族愛は無償に近い愛の形かも。
・その背景が血の繋がりだとしたら、家族以外では成り立たないのか? ←イマココ
永遠が、与えてくれる安心感
▽『我が子のためならば
何でもしてやりたい!』
と思えるのは、
『親子』というものが、
本人たちが生まれる前から
決まっていた関係性だ
(と思えるから)ではないか?
と前回書いた。
本人たちが生まれる前から
決まっていた関係性だ
(と思えるから)ではないか?
と前回書いた。
▽つまり、
その関係性の永遠なることが
神とか宇宙とか自然とか
そういう大きなものによって
保証されているから、
安心して相手を愛することが
できるのだと。
(特に、私のような
性悪説を採用する人間には。)
▽これが永遠が保証されない
単なる恋愛の場合だと、
誰しも、振られるのが怖いし、
もし振られたら、悲しい。
血縁無くとも神の保証は受けられる
▽家族愛では、
見返りは求めていなくても、
無条件に相手を愛している
わけではない。
『血の繋がり』という
セーフティネットによって、
愛が無意味になってしまう
ようなことは、
予め回避されているのだ。
▽それゆえ、
家族愛は完全に
『無償の愛』と呼べるかは
良くわからないが、
それと同程度の状態を
血の繋がりがなくても
実現できるものなのだろうか?
このような保証は、
人智を超えたところで
定められているから意味がある
のだとすると、
血の繋がった親子でなくとも、
お互いにこの相手からは
何があっても絶対に逃れられない
ということが強制的に
決まっていれば、
同様の状態が実現できる
のではないか?
▽具体的には、互いに相手を
運命の人だと思えるような場合
がそうだ。
(相手と一緒になったことを)
「神様の思し召し」とか、
「宇宙の法則に従った結果」
「一生に一度の奇跡!」
などと思えれば、
その関係性は、人間ごときの
一時の感情では崩しづらい。
つまり、永遠が保証されている
状態に近い。
▽そんなわけで、
見合い結婚の時代から
恋愛結婚の時代に移って
まだ50年ほどとは思うけれど、
できちゃった婚とか、おめでた婚とか
授かり婚とかある中で、
(全部一緒か)
次は、「運命婚」にするのが
良いのではないかと思う。
結局は、腹を括るかどうか
▽神とか宇宙とか
言い始めてしまったので(笑)
少し、地に足の着いた
話に戻したい。
▽大体、「運命婚」と言っても
どこまでが「神の思し召し」で、
どこからが本人たちの意志なのか、
その線引きはかなり微妙なところだ。
▽ただ、もし愛が結局は
自分のためや、この世界のためで、
目的なき愛は無いとするならば、
目的の達成に資する愛と
そうでない(『無駄』な)愛も
あるかもしれず、
愛を『無駄』にしないためには
愛を注ぐ側と受ける側が、
何らか腹を括ることが重要
だと思われる。
▽つまり、テレビ番組の
罰ゲームなどでよく、
2名の出演者がそれぞれ
大きなゴムを口でくわえて
画面の両端に離れていく、
みたいなことをしているけれど、
そんな状態の中でも
相手が口を開かない安心感
・・・という最後の喩えは
蛇足だったかもしれない。
ひとまず おわり☆

ハシゴを外さないという安心感が愛の基礎?
http://news.mynavi.jp/c_cobs/news/labaq/2012/08/18-15.html